前編【日韓ビジネス仕事人 file.007】
作家 佐藤結
1990年、まだ「韓流」という言葉が生まれるより前に、一人の日本人学生が韓国へ留学した。
その後、日本語教師や演劇制作の仕事を経て、映画に関わる編集の現場へ。『キネマ旬報』との縁から韓国映画の取材を始め、『シュリ』以降の韓国映画ブーム、そして『冬のソナタ』から広がった韓流ブームを、現場で見続けてきた。
映画ライターとして数多くの作品や俳優、監督を取材する一方、映画イベントの司会や聞き手、韓国ドラマに関する執筆、小説の翻訳など、その活動は幅広い。
韓流ブームの前から韓国映画を追い続けてきた佐藤結氏に、韓国との出会いと「伝える仕事」の原点を聞いた。 佐藤結さん(2025年9月ソウルの梨花洞壁画村にて)=本人提供(c)K Side
――韓国との最初の出会いは、大学時代の留学だったそうですね。
「はい。大学に交換留学制度があり、もともと学生のうちに一度は海外へ行ってみたいと思っていました。
当時、交換留学をする学生の多くはアメリカを選んでいたんです。でも大学生ですから、少し生意気なところもあって(笑)、みんなが行くところとは違う場所へ行ってみたいと思いました。
アジアの留学先として韓国、フィリピン、香港などがあり、その中から韓国を選びました。今振り返ると、なぜ韓国だったのだろうと思うくらい、当時は韓国についてほとんど知識がなかったんです。韓国が特別に好きだったからというより、知らない場所へ行ってみたいという好奇心のほうが大きかったと思います」
――当時の韓国は、現在とはまったく違う雰囲気だったのではないでしょうか。
「1990年9月から、10カ月ほどソウルで過ごしました。当然ですが、韓流ブームのようなものはまったくありません。
韓国では長く続いていた独裁体制が民主化を求める学生や市民の粘り強い対抗の末に1987年にようやく倒れ、1988年にはソウルオリンピックが開催されていたんですね。ただ、私自身はそうした社会的背景を十分に理解して渡ったわけではなく、現地で暮らしたり、後から勉強したりする中で知っていきました。
当時は学生運動もまだ盛んでしたし、街にも今とは違うエネルギーがあったのを覚えています。現在のソウルは非常に洗練されていて、日本から旅行で訪れる人も多く、ネットでなんでも見られますから親近感がありますよね。でも当時は似ている部分もありながら、まったく違う。少しゴツゴツした、独特の感触がありました。
民主化直後ではありましたが危険を感じたということではありません。自分自身、家を離れて生活したのが初めてということもあって、知らない世界へ放り込まれたような面白さがありましたね」
留学時代の写真=本人提供(c)K Side
――その面白さにハマって、韓国に関わる仕事へ進もうと思ったのでしょうか?
「まったく違うんですよ。留学から帰国して大学を卒業した後は、日本語教育を学ぶ大学院へ進みました。外国人に日本語を教える仕事に興味を持ち、修了後は地方にある大学で日本語教師の職に就きました。 ただ、実際に仕事をしてみると、組織の中でうまく働くことができず、1年ほどで東京へ戻りました。その後は演劇祭の制作など、演劇に関わるアルバイトをしていました。 留学から韓国映画の仕事を始めるまで、実は10年ほどあります。その間は、自分が何を仕事にしたいのかをずっと模索していた時期でした」
――そうなんですか! そこから「書く仕事」を目指すようになったきっかけは何だったのでしょうか?
「演劇制作の仕事をしながら、何かを書くことをやってみたいと思うようになりました。今はなくなってしまった日本ジャーナリスト専門学校の短期コースに通って文章を書く勉強をしました。 実際に書いてみたことで、“もしかしたら、自分にもできるかもしれない”と思えたんです。それから編集関係のアルバイトを始めました。 たまたま携わった編集の仕事が映画関係で、そこで雑誌『キネマ旬報』の方と知り合いました。その出会いが、韓国映画の仕事につながっていきました」
――韓国のお仕事が始まったのは、どのような流れからだったのでしょうか。
「日本で映画『シュリ』が公開されたのが2000年です。その頃、韓国映画はドラマよりも一足早く、日本で注目され始めていました。『シュリ』も大ヒットでした。そんな流れもあって、『キネマ旬報』が韓国の映画雑誌『CINE21』と連携する話があり、韓国語ができる人を探していたんです。知り合いから『韓国語ができたよね』と声をかけてもらいました。 ただ、当時の私の韓国語は本当におぼつかないものでした。留学も10カ月ほどで、韓国映画にもそれほど詳しくなかったですし。でも周囲に韓国語ができる人が少なかったこともあり、『せっかくだからやってみよう』と仕事を始めました。 最初はインタビュー原稿を書いても、先輩の編集者から『これでは原稿になっていない』と言われるような状態でしたが、取材の仕方も文章の書き方も、現場で一から教えていただきました」
――最初の頃は、どのような取材をされていたのですか?
「韓国俳優が出演する日本映画の撮影現場や、来日した俳優の取材などです。ソン・チャンミンさんやチャン・ドンゴンさんを取材したのも、その頃だったと思います。 当時は、日本と韓国で合作映画を作ろうという動きもあり、韓国の俳優が日本で撮影する機会もありました。韓国語で直接インタビューすることもありますが、複雑な質問を正確に、限られた時間で伝えるためには、通訳の方に入っていただくことが多いです。こちらの質問だけ韓国語で伝え、回答はそのまま聞くという形もあります。 取材では相手の話をきちんと引き出し、正確に伝えることが一番大切です。そのため、今でも必要に応じて通訳の方にお世話になっています」
――韓国映画の取材を始めた頃、後にこれほど大きな韓流ブームが起きると予想していましたか?
「まったく予想していませんでしたね。私は韓国映画から仕事を始めましたが、2004年頃から『冬のソナタ』をきっかけに韓流ブームが本格化し、ドラマに関する仕事も一気に増えていきました。 『キネマ旬報』でも、『冬のソナタ』の日本語と韓国語を並べたシナリオブックを出版したり、韓国俳優を表紙にしたりするようになりました。やっぱりヨン様、ペ・ヨンジュンさんの人気はものすごかったですよね。そうやって映画を取材していたところへ、突然ドラマの大きな波がやってきたんです。そこから韓国エンターテインメントを取り巻く状況が、ものすごい速さで変わっていきましたね」 韓流という言葉が一般に広がる前から、韓国映画の現場を歩き始めた佐藤氏。後編では、韓流ブームの熱狂、スターたちへの取材、2000年代の韓国映画が持っていたエネルギー、そして現在取り組んでいる「映画と本」をつなぐ活動について聞く。
佐藤 結(さとう・ゆう)
映画ライター。韓流ブーム以前から韓国映画を取材し、『キネマ旬報』をはじめ各媒体で映画や韓国ドラマに関する記事を執筆。映画監督イベントの司会・聞き手も多数務める。小説翻訳にも携わり、イ・ドウ著『私書箱110号の郵便物』(アチーブメント出版)の翻訳を担当。
【後編】へ続く
取材・文=Ikushima Maki